今回は提出見送りの背景と、今後の制度改正が企業実務に与える影響について説明します。
井上 敬裕 氏
中小企業診断士・社会保険労務士
青果加工場の工場長を約9年間務めた後、40歳の時に中小企業診断士として独立。販路開拓支援、事業計画作成支援、6次産業化支援、創業支援などを行う。
平成27年社会保険労務士として開業し、給与計算を中心に労務関連業務を行っている。
社会保険労務士法人アスラク 代表社員
https://sr-asuraku.or.jp/about/
この記事でわかること
- 2026年に労働基準法改正案の国会提出が見送られた背景と理由
- 勤務間インターバル、副業・兼業、テレワークに関する今後の制度改正の方向性
- 改正スケジュールの見通し(2026年後半~2027年前半)
- 企業が今すぐ着手すべき労務管理の準備3つ
成長戦略と労働規制のすれ違いが生んだ提出見送り
提出の見送りは、単なるスケジュール的な遅れの問題ではなく、政府が「働き方改革の次の段階」をどう描くか、その方向性を再調整するための判断だったといえます。
高市内閣は、成長戦略の柱として「労働生産性の向上」「労働市場の流動化」「副業・兼業の促進」を掲げています。企業がより柔軟に人材を活用し、労働者が多様な働き方を選択できる環境を整えることが、経済成長の前提になるという考え方です。
一方、労働政策審議会でまとめられた改正案には、勤務間インターバルの義務化や連続勤務の上限設定など、企業にとって負担の大きい規制強化が並んでいました。健康確保の観点からは重要な論点ですが、物価高や人手不足が続くなかで、企業の柔軟性を奪う可能性がある点が懸念されました。
つまり、「働き方改革の理念」と「成長戦略としての現実」の間に、微妙なズレが生じたのです。 その結果、政府は「いったん立ち止まり、制度の方向性を再調整する」という判断を下しました。
制度改正の大きな流れは変わらない
提出見送りがあったとはいえ、制度改正そのものが後退したわけではありません。働き方の実態が大きく変わった今、改正は避けられない状況です。特に、企業実務に大きな影響を与えるのは次の3点です。
勤務間インターバル制度の義務化は「時間の問題」
勤務間インターバル制度は、勤務終了から次の始業までに一定の休息時間を確保する仕組みです。現在は努力義務ですが、テレワークの普及により、仕事と生活の境界があいまいになり、長時間労働が見えにくくなるなかで、休息時間の確保は避けて通れないテーマになっています。
欧州連合(EU)ではすでに「24時間ごとに11時間の休息」が義務化されており、日本でも同水準を目指す方向性は変わりません。 ただし、今回の提出見送りにより、次のような「現実的な制度設計」が検討される可能性が高まりました。
- 一律義務化ではなく段階的に導入する
- 業種別に例外設定を行う
- 中小企業には猶予期間を与える
企業としては、制度化を待つのではなく、勤務終了時刻の記録精度を高め、インターバルを確保しやすい勤務設計に移行する準備が求められます。
勤務間インターバル制度を導入した際に発生しがちな「始業遅延と給与の扱い」については、以下のQ&A形式の社労士監修記事で詳しく解説しています。
副業・兼業の割増賃金の扱いは「前向きに進む」
副業・兼業を促進する政府方針は揺らいでいません。しかし、現行制度では、本業と副業の労働時間を通算し、割増賃金も通算する必要があるため、企業側の負担が大きく、副業を認めにくい状況が続いています。
この点については、「労働時間の通算は維持しつつ、割増賃金の通算は不要とする」という方向性が示されており、成長戦略とも一致するため、むしろ優先的に進む可能性があります。
副業を認める企業が増えるなかで、健康確保措置や申告ルールの整備は避けて通れません。 企業は「副業をどう管理するか」という視点から制度を見直す必要があります。
テレワーク時代の労働時間制度の再設計
テレワークとフレックスタイム制の相性の良さは広く認識されていますが、現行制度は「部分的適用」ができず、実態に合わない場面が多くあります。また、在宅勤務では実労働時間の把握が難しく、過度な監視やトラブルの原因にもなっています。
そのため、次のような仕組みが検討されています。
- フレックスタイム制の柔軟化
- テレワーク専用のみなし労働時間制
- 本人同意の撤回を可能とする
これらは企業にとってもメリットが大きく、制度改正の方向性は変わらないと考えられます。提出見送りを経て、より現実的で使いやすい制度に改良される可能性 があります。
今後の見通しと企業が備えるべきこと
今回の提出見送りを受けて、労働基準法改正は2026年後半~2027年前半に再提出される可能性があります。ただし、内容は「規制強化一辺倒」ではなく、成長戦略と両立するかたちに調整されるとみられます。企業としては、次の3点を優先して準備しておくことが重要です。
労働時間管理の精度向上
制度改正の方向性がどう変わったとしても、労働時間管理の精度向上は企業にとって避けて通れない課題です。特にテレワークが定着した現在、従来の「出社=労働時間の把握」という前提が崩れ、勤務実態を正確にとらえることが難しくなっています。
勤務間インターバル制度の義務化が段階的に進む可能性が高い以上、始業・終業時刻の記録精度を高めることは、法改正への備えとなります。同時に、従業員の健康確保や離職防止にも直結します。
また、長時間労働の兆候を早期に把握できる仕組みを整えることは、企業のリスク管理としても重要です。労働時間を客観的に把握することは、法改正の有無にかかわらず、企業が持つべき「基礎体力」といえるでしょう。
副業・兼業の運用ルール整備
副業・兼業は、今後の労働市場で確実に広がっていく働き方です。割増賃金の通算ルールが見直される可能性が高いため、企業としては「副業を認めるかどうか」だけでなく、「どのように管理するか」という視点が欠かせません。
特に重要なのは、労働者本人の申告を前提とした運用ルールの整備です。申告のタイミング、情報の扱い方、健康確保措置の内容など、企業が事前に決めておくべき事項は多岐にわたります。副業を認める企業が増えるなかで、ルールがあいまいなままでは、労働時間の通算や健康管理の責任範囲が不明確になり、トラブルの原因になりかねません。
制度改正がどのようなかたちで進んだとしても、副業・兼業を前提とした労務管理への移行は不可避です。企業は今のうちから、実態に合った運用ルールを整備しておく必要があります。
テレワーク・フレックス制度の見直し
テレワークとフレックスタイム制は働き方の柔軟性を高めるうえで欠かせない制度ですが、現行制度は出社と在宅勤務が混在する働き方に十分対応できていません。特に「部分的適用ができない」という制度上の制約は、実務上の使いにくさにつながっています。
今後、制度の柔軟化が検討されるなかで、企業は制度改正を待つのではなく、自社の働き方に合った運用方法を見直すことが求められます。たとえば、テレワーク時の中抜け時間の扱い、業務開始・終了の申告方法、コアタイムの設定など、現行制度の範囲内でも改善できる点は多くあります。
これらの制度は今後、より使いやすい形式に変わる可能性がありますが、企業側の準備が整っていなければ、そのメリットを十分に生かせません。テレワークとフレックスを「形式的な制度」にしないためにも、今のうちから運用の見直しを進めることが重要です。
まとめ
労働基準法改正案の国会提出見送りは、制度改正が後退したわけではなく、より現実的で持続可能な制度に仕上げるための再調整といえます。働き方の質を高める方向性は変わりません。企業は制度改正を待つのではなく、今のうちから労働時間管理や副業制度、テレワーク運用の見直しを進めることが重要です。働き方改革の「第2フェーズ」がこれから本格化するでしょう。

